考えるきっかけ
みなさん、「もしもきゅうりが甘かったら」と考えたことはありますか?
僕は正直、考えたことがなかったですし、考えようとすら思いませんでした。
そんなある日、きゅうりについて勉強するために『稲山光男著 農山漁村文化協会発行 「まるごと楽しむキュウリ百科」 1992年初版』という本を読んでいたのですが、その17頁に「もしもキュウリが甘かったら」という項目を発見しました。
その項目自体の分量は、決して多いものではなかったのですが、なぜか、その項目にものすごく惹かれるものがありました。恐らく、まだまだ野菜ライターとして駆け出しで、野菜(及びその周辺)の知識に欠けている僕にとって、非常に取っ付きやすい項目だったのだと思います。
これがきっかけで、野菜ライターとして駆け出しの者なりに、「きゅうりが甘かったら、今の世の中とどのように違っていたのだろう?」と考えてみることにしたのです。
僕の中にあるきゅうりのイメージ
まず、僕の中にあるきゅうりのイメージとして思い浮かんだのが「苦さ」です。
実は僕、きゅうりが少し苦手なのです、その理由こそが、その独特の苦さです。
同じく苦味がする野菜として、ピーマンが挙げられますが、ピーマンは大好きです。
個人的な感想を言わせてもらうと、きゅうりとピーマンでは、苦味の質が違います。
ピーマンの苦味は受け付けられますが、きゅうりの苦味は受け付けられません。
ピーマンにもきゅうりにもあの「青臭さ」の元である「ピラジン」が含まれていますが、きゅうりにはさらに苦み成分として「ククルビタシン」が含まれていて、恐らくそれが、僕がキュウリを食べるときに苦しめているのでしょう。
しかし、加熱調理し調味料と混ぜ合わせると、事情が違ってきます。
様々に味付けできるきゅうり
生では苦手なきゅうり、しかし、加熱し味をつけると、僕はきゅうりが大好きになります。
生の状態では苦手だった苦味さえも、味方になるのです。
僕と同じように、きゅうりの苦味が苦手な方も、加熱し味を付けることで好きな野菜に変貌する、という方もいるのではないでしょうか?
そしてきゅうりといえば「様々に味付けができる」という強みがあります。
ところが・・・、これが、「きゅうりが甘かったら」果たして実現するのでしょうか?
「甘い」ときゅうりにとっての事情が「甘くなくなる」かも
きゅうりが、果実や果実的野菜―こと同じウリ科のスイカやメロンのように―甘かったら、果たして今のきゅうりの「立場」はあるのでしょうか?
スイカやメロンのように甘ければ、きゅうりもまた、デザート的要員として使われる野菜になっていたかもしれません。
しかし、すでに他に似たような(果実的)野菜(スイカやメロン)がある中で、デザート的要員として確固たる地位を築き上げるには、独創性がなければなりません。
スイカのように手軽に(高級なものもありますが)水分補給をしながら甘さを味わえ、メロンのように、即効性と持久性を兼ね揃えたエネルギー源として、そして高級感を漂わせる甘さを味わえるという、これらの要素を超える独創性がなければ、「甘いきゅうり」が人類に今のように受け入れられていた―今存在する甘くないきゅうりのように―可能性は、低かったかもしれません。
そして、独特の苦みがあるものの、味が薄めで、調理方法によって様々に味付けできるという強みがあるからこそ、きゅうりの今の立場があるのではないでしょうか。
スイカやメロンには、もっと言えばかぼちゃには、最初から濃い甘味があるため、きゅうりのようにはいきません。
きゅうりは、甘くないからこそ、人類に受け入れられているのかもしれません。
まとめ
僕は、生まれつき持っていた障害によって、「普通の子が普通にできることができない」ということに苦しみ、大人になってもそれが続いていました(その障害について少し、自己紹介ページで触れているので、よろしければ以下のリンクを参考にしてください)https://shunnayasai.com/profile/
しかし、きゅうりはスイカやメロンやかぼちゃのような甘さがない、つまり独創性があるからこそ、今の立場があるのではないかと、つまり、個性というものがあっても良いのではないかと、思いました。
今回「もしもきゅうりが甘かったら」ということを考えることができて、大変有益な時間となりました。
この記事を書いている時点では、まだまだ野菜ライターとして駆け出しの僕ですが、将来、もしもう少し今よりも進歩できていたら、この記事のことを思い出して、初心に帰ろうと思います。
最後になりますが、そんな僕の最新情報を、僕自身が運営するツイッターで確認できるので、よろしければ以下のリンクを参考にしてください。https://twitter.com/shundaiba